不確実さを避けられない状況の中で、少しでも不確実さを減らし、良い結果が期待できるような方法を採るために最善を尽くそうとしているのが医学の姿だ。

2017年8月14日 20時37分27秒 (Mon)

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お盆の通勤時間帯の電車はガラガラで快適です。
朝から事務作業をコツコツと進めていると、理学療法診療ガイドラインの班長の山梨リハのイトウ先生からメール。
脳卒中班の次のミーティングの日程が8月29日になりそうです、と。
また田町に行きますねん。
早速新幹線をネットで予約。
ボキ、EXカード持ってるんです。
これめっちゃ便利やねん。
スマホで予約ができる上に、ポイントがたまったら、普通の指定席の料金でグリーン車に載れるんですよ。
8月29日、ボキ、42歳にして初めてグリーン車に乗ります。
ワクテカです。




今日もかみさんとガキどもが不在なので、帰宅してからもダラダラと仕事をしています。
一番効率が悪いパターンかもしれません。
さっさと切り上げて、今日はコード・ブルー見なきゃね。

ちなみに今作っているのは、木曜日に院内で講師させてもらう研修会のスライド。
タイトルは『ガイドライン活用法』。
ガイドラインに関する院内研修会は毎年のようにやってるんだけどね。
未だにガイドラインの価値が伝わってないように思うのです。
そこで今年はちょっと切り口を変えて、

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情報とは何ぞや、という部分から理解してもらおうか、なんて考え始めて、現在ドツボにはまってるのです。

ある治療がその患者さんに「必ずよい」効果を示すかどうか100%とは言えない中で、最大限に自身の知識を用いて、情報収集して、最良のことを行おうとするのが医学。
でも自分の選択した治療法が必ず効くとは限らない。
特にリハビリテーション医療は、アウトカムがはっきりしない分、本当に自分の選択した治療法が正しいのかが分かりにくい。
それでも、少しでも効く可能性が高いと思われる治療法を、セラピストは自身の経験やエビデンスに基づいて選択する。

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そのためにも、セラピストが医療情報をうのみにせず、落とし穴に注意してしっかり選択することが重要になる。
しかし、実際の医療には「絶対」「確実」ということは非常にまれで、不確実なことの方がずっと多い。
不確実性(どの治療が最良なのかが分かっていないこと)を知ったとき、次のステップとして医療従事者は何をすべきか?
そこで我々が知っておくべきこととして、Shared decision makingという概念があるのです。

…みたいな内容。
本当の勉強の仕方がわかってる少数のセラピストにだけ、面白いのかもしれない。
なるべくそうならないように工夫してるんやけどね。


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あ、この辺のお話は京大教授の中山健夫氏の文章を参考してます。
ちなみにこんな本を中古で購入しました。
Amazonで28円でした。
興味のある人はまた貸してあげる。

中山教授はいろんな本で、あるいはサイトで、『情報の質の吟味』が大事だ、って訴えてます。
これ、セラピストが一番苦手なところやと思うねん。
根拠のうっすい治療法が現在も平気で選択されてるのは、セラピストの情報リテラシーの低さゆえだと思うのね。
そのあたり、今度の院内研修会で一人でも多くのセラピストが気付いてくれたらいいな、と思いつつ、たぶんみんな寝るだろうなぁ。



…あ、情報リテラシーと言えば、タッツーもこれについて面白い文章を書いている。
毎度のように長くなるので、以下タッツー好きのヒトだけどうぞ。
2011年のブログ、タイトルもそのまんま『情報リテラシーについて』って文章。


情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である。
「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報のことである。
例えば、「この情報をあるメディアは伝えているが、違うメディアは伝えていない」という情報の「分布」についての情報。
「この情報には信頼性の高いデータによる裏付けが示されているか、いないか」という情報の「信頼性」についての情報。
「この情報はこれまで何度も意匠を変えて登場してきたある種のデマゴギーと構造的に同一か、先例の見いだしがたい特異性を示しているか」という情報の「回帰性」についての情報。
などなど。
私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。
「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。
そういうふうに考える人間がいれば(アカデミズムの世界にもけっこうたくさんいるが)、その人の情報リテラシーは低いと判断してよい。
情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。
私たちはつねにある種の情報を選好し、ある種の情報を忌避する。
そこには個人的な基準がある。
基準となっているのは、私たちがひとりひとり選び取っている「世界についての物語」である。
そのストーリーに整合する情報は「よい情報」であり、そのストーリーになじまない情報は「悪い情報」である。
私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる。
「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する。
それは人間である以上しかたがない。
しかたがないけれども、「人間とは(自分を含めて)そういうものである」という認知を行うことはできる。
「私の眼に世界はこのように見える」という言明と、「私の世界経験には主観的なバイアスがかかっており、かつ限定的であるので、私の見ているものが『世界そのもの』であり、『世界の全容』であるということは私にはできない」という言明はレベルが違う。
「レベルが違う」ということは「問題なく共存できる」ということである。
私たちの世界経験はつねに限定的である。
(中略)
情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。
どのような情報も(嘘もデマゴギーもプロパガンダも妄想も夢も)、紛う方なくこの世界の真正な一部であり、その限りでは、世界と人間の成り立ちについて程度の差はあれ有益な知見を含んでいる。
情報リテラシーとは、それらがどのような間主観的構造によって「私の世界経験」に関与しているかを知ろうとすることである。
私たちはある種の情報の組織的な欠如や歪曲からも「ほんとうは何が起きているのか」を推理することができる。
嘘をついている人間についても「この人は嘘をつくことによって、何を達成しようとしているのか?」を問うことができる。
情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。
それはリテラシーのほんの第一歩というにすぎない。
精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。
「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。
そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。
情報リテラシーとはそのことである。
「情報についての情報」とは「おのれの知についての知」のことである。
というところまでは「よくある話」である。
問題はこの先。
では、この「おのれの知についての知」を私たちは単独で構成しうるか?
できない、と私は思う。
メタ認知とは、コンテンツの問題ではなく、主体の問題だからである。
メタ認知の認知主体は集合的であり、単独ではない。
それはカール・ポパーのいう「反証可能性」のありかたと同一である。
ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。
それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。
命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。
「反証不能」とはそのことである。
命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。
それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。
情報の階層化とは、そのことである。
私が「情報貴族」と呼んだのは、「自分たちが所有している情報についての情報」を集合的なかたちで形成できる集団のことである。
「情報難民」と呼んだのは、原子化されたせいで、自分が所有している情報を吟味する「公共的な言論の場」から切り離されてしまった人々のことである。
もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。
けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。
情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。




…そういえばこないだ就職説明会で学生さんの前でちょっとおしゃべりさせてもらったんやけどね。
大事なのは個人の知力の問題じゃない、どんな集団知に属しているかが大事だよ、って、そんなメッセージを送ったん。
たぶん彼らは理解できなかったと思うけど。

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プロフィール

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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