なんか今日、めっちゃ涼しいよね?

2017年8月12日 21時35分56秒 (Sat)

お盆ですなぁ。
我が家も今日から5日ほど、かみさんとガキどもが倉吉に帰省するので…しばらくモフモフとの2人暮らしです。

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午前、4階新人ナカウエさんとジャッジ。
ついこないだも撮ったんやけど、数日間で劇的に変わるはずやから、って今日もジャッジ。
スタスタ歩けるんやけど、T-Supportを装着するとガストロの筋トレ効果が違ってくるんやから!

こんどなつみとナカウエさんに時間かけてフィードバックせなあかんな。

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午後、2階新人ヨシダくんとジャッジ。
プッシャーのある患者さんで後方介助と側方介助。
ちなみに麻痺側で介助してるのはサトウくん。
やっぱり立脚後期のガストロがじぇんじぇん違うでしょ?

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これ、約1週間前の側方介助。
ガストロの反応はまだこれくらいだった。

今度プリのヤマタクとヨシダくんと3人で時間かけて整理しましょう。


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夕方、ウエダくんの新患さんのジャッジ。
緑がガストロ、青が前脛骨筋。
側方介助がピンズドです!
ボキ、このごろ患者さんの歩き方見たら、立脚後期のガストロの筋電図が脳裏に浮かぶようになってきてんねん。
ほんまやで。



さて、高校野球がたけなわですね。
明日の午前中、第2試合に下関国際高校、って学校が試合するねん。
この試合は注目やで。
ここの監督のインタビューがかなりぶっとんでるん。
そこから、教育って何だろう?って考えさせられる。
一部抜粋。

――朝5時から練習するそうですが、選手が自主的に?
「半強制です。自主的にやるまで待っていたら3年間終わっちゃう。練習が終わって学校を出るのは21時くらい。本当に遅いときは23時くらいまでやることもあります。(中略)少しでもそういうのを大事にしていかないと、うちのような弱いチームは他に勝てない。進学校さんはそういうやり方が嫌いだと思いますけど」

――確かに、自主性をうたう進学校は増えています。

「そういう学校には、絶対負けたくない。実は東筑(福岡の進学校で今大会に出場)さんとは(現監督の)青野さんの前任者のときに1回、合同練習をしたことがあるんですけど、うちの練習を見た監督から『やってて意味がない』と言われたんです。(下関国際のように)きついことはしていない。賢い子も『意味がない』と、すぐに言うでしょ?今回の県大会で宇部(初戦)と下関西(2回戦)と、進学校に当たったので、普段練習してないだろうと思って、思いっきり長い野球をやっちゃろうと。ボールも長い時間こねて、牽制もバンバン投げて。七回になったら向こうもヘトヘトでした。 僕ね、『文武両道』って言葉が大嫌いなんですよね。あり得ない」

――野球と勉学の両立は無理と?

「無理です。『一流』というのは『一つの流れ』。例えば野球ひとつに集中してやるということ。文武両道って響きはいいですけど、絶対逃げてますからね。東大を目指す子が2時間の勉強で受かるのか。10時間勉強しても足りないのに」

――文武両道は二流だと?

「そういうことです。勉強しているときは『いや、僕野球やってますから』となるし、野球やっていたら『勉強が……』となる。“練習2時間で甲子園”って。2時間って試合時間より短い。長くやればいいってことではないけど、うちは1日1000本バットを振っている。1001本目で何か掴むかもしれない。なのに、時間で区切ってしまったら……。」

――選手に任せることはしない?

自主性というのは指導者の逃げ。やらされている選手がかわいそう』とか言われますけど、意味が分からない。」


…いやぁこれは面白い。
面白いよね。
これで甲子園まで来たんやから、それはそれですごいことやと思うねん。
でもその一方で、最終的には自分で考えてトレーニングをしてきた集団には勝てないんじゃないか、と思ったりもする。

ボキ、職場の若い衆に無理矢理勉強させようとは思わない。
ただ、勉強をしたセラピストが生き残って、勉強しなかったセラピストがレイオフされる、その時代が来ることだけは明らか。
その事実だけは繰り返し教えてあげなきゃならないとは思うけど。
その上で自己研鑽をやるかやらんかは、自主性に任せるしかないんじゃないかな。
だから今から作ろうとしているセラピストのためのキャリアラダーに、学術活動を絡めるのは本質的には間違いやと思うねん。
勉強って、やりたいと思うからするもんやん?

まぁこの辺は…自分の中でもまだ答えが出てないので、この辺にしとくわ。

最後に2012年のタッツーのブログ、「不便さと教育」って文章。
長いから好きなヒトだけどうぞ。




私たちが経験的に言えるのは、「難関校合格するだけの学力をもつ生徒がたくさんいる高校」は難関校合格者が多いということ、「英語ができる生徒のたくさんいる高校のTOEIC平均スコアは高い」ということであって、それは単なる同語反復に過ぎず、当該教育機関の行っている教育の卓越性については何も語らない。
もし、本気で教育機関としての優秀性を難関校合格者で測定したいと思うなら(誰が思うか知らないが)、高校入学時点で複数の高校に同数の生徒をランダムに配分して、「よーいドン」で教育して、3年後の東大合格者数やTOEICスコアを比べればいい。新薬の治験と一緒である。ランダムにグループ分けして、こちらにはA高校の教育をほどこし、こちらにはB高校の教育をほどこし、3年後の同じ試験を課して学力を測定すればとりあえず教育プログラムの限定的な効果についてはデータが手に入るだろう。でも、そんなことをしている学校は日本のどこにもない。やろうという人もいない。教育機関の質の指標をそのような数値で示すことが実は無意味なのだということをみんなほんとうは知っているからである。
というのは「この教育方法でやってみたら、うまくゆきませんでした」ということを教育する側は絶対に言うことができないからである。学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。教育において「実験」は許されない。だから、教育機関の卓越性は科学的には考量不能なのである。
松下村塾にしても、適塾にしても、懐徳堂にしても、劇的な成功を収めた学校は歴史上たくさんあるが、それが成功した理由を科学的に証明することは誰にもできない。それを証明するためには、松下村塾と同じ資質の塾生たちを集めて、吉田松陰ではない人が教えた場合のアウトカムを比較するしかないが、それが不可能だからである。
卓越した教育機関が卓越しているのは「卓越した資質を持った若者たちが、そこに惹きつけられて集まってきた」からである。私たちにはそれしか言えない。別に吉田松陰が有為の青年たちに向かって、「うちで学ぶとこんなに知力が上がり、いずれ歴史的転換点で大きな働きをして栄爵を得るでありましょう」というようなパブリシティをしたわけではないし、「他と比べて、こっちの方が学習努力の費用対効果がよさそうだ」と算盤を弾いて、高杉晋作や伊藤博文や山縣有朋が門下に参じたわけではない。そこで何が行われているのかわからないし、そこで講じられていることにどんな有用性があるのかよくわからないけれど、「なんだか知らないけれど、そこに行って学びたい」という若者たちが蝟集してくる学舎が教育機関として結果的に高いアチーブメントを示す。私たちが知っているのはそれだけである。教育機関の質はそこで学んだ若者たちがそれからあとなしとげた仕事の質によって見るほかない。そのときはじめて「これほど優秀な若者たちが一堂に集まった学舎はきっとすぐれた教育プログラムを行っていたに違いない」という推論が成立するのである。ある教育機関の質は、そこで学んだ人々のその後の生き方を見ることで事後的に測定するしかない。だが、「棺を覆いて定まる」という言葉が教えるように、ある人が「どのような評価を得たか」が確定するまでには長い時間がかかる。松下村塾の卓越性が歴史的に証明された頃には関係者は全員死亡しているので、科研費をつけることもできないし、塾長に紫綬褒章を送ることもできない。そうものである。私たちがある学校の卓越性や瑕疵についてのエビデンスを得るのは、いつだって「もう遅すぎる」ようになってからなのである。
だから、教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。
人間は実に多様なきっかけによって心を開き、心を閉じ、学び始め、学ぶ気力を失い、成長を開始し、退行する。私たち教師が言えるのは、「経験的に比較的効果的な方法が存在する」ということだけである。その方法さえ教師ごとにみな違う。だから、教師たちが集合的に「正しい教え方」について合意形成するということは決して起こらない。
だが、まさにすべての子どもを斉一的に知性的感性的に成長させる方法が存在しないという当の事実が人間の本質的な開放性を担保していると私は思う。それは言い換えると、あらゆる人間のあらゆる言葉、あらゆるふるまいが、子どもたちにとっては「学びのトリガー」となる可能性があるということである。
やがて知的なブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)にとって、目の前に立つ教師のほとんどは(残念ながら)知的にはあまりインスパイアリングではない。けれども、「教師が十分に知的に啓発的ではなかったためについに才能が開花しなかった天才」というようなものを私たちは想像することができない(その程度のことで萎れてしまうものを私たちは「才能」とは呼ばない)。教師は、しばしばその狭隘さや愚鈍によってさえ子どもの学びを起動させることができる。「なぜ教師たちはこれほど愚鈍なのか?」という問いはある種の子どもたちを「学校」や「教育」についてのメタ認知に導く(彼らはいずれ「誰であれ教壇の向こうに立っていてさえいれば教育的に機能する。人は教える立場にある限り、教えることができる」という人類学的知見にたどりつくだろう)。
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。だから、過去の出来事が意味の改訂を拒絶するというのは人間が成長を止めたということと同義である(それゆえ、意味の改訂を拒絶する出来事の記憶のことをフロイトは「トラウマ」と呼んで治療の対象としたのである)。
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
学びというのはそのようなしかたでダイナミックに構造化されている。
 

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プロフィール

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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