42歳になりました。

2017年2月13日 21時36分13秒 (Mon)

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ボキの兄は37歳で亡くなったので、もうボキの方が5歳も年上なんだな。
少しずつ兄より年上になって、何だか不思議な気分なり。

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とりあえず、両親よりは長生きしよう。
と改めて思った誕生日。




…以下、タッツーのメルマガに書いてあった、平川先生の文章を一部抜粋。







人生相談をする人は、実はたいていの場合、自分の答えをすでに持っています。
ですから、あえて相談をする時は、背中を押されたい、自分の答えを第三者に承認してもらいたいと思っているはずです。
あるいは、この悩んでいる自分を知ってもらいたいとか、救ってもらいたいと思っている。
そして、自分の救いにつながるような正しい答えがどこかにあるのではないかと、思っている。
しかし、残念ながら、あなたが期待しているようなそういう救いというものは、ここにはありません。
いや、どこにもないといってもよいかもしれません。
なぜなら、人生上の諸問題というのは、誰に対しても正しい、ひとつの答えが用意されているわけではないからです。
答えとは問題解決のための糸口ぐらいなことでしょうが、人生はそういうふうな問題解決型の文脈の上にあるわけではない、と捉えることがまず大事だと思います。
人が生きていくということは、問題ではないし、問題解決のためにあるものではないのです。
なぜなら、そもそも、生きていくということは、何か目的を達成するためではないからです。
人生に目的なんてありません。
そうなんです。
たまたま偶然にシャバに生まれてきたわけであり、目的は事後的に作り出した物語に過ぎません。
そもそも、生まれて生きている自分の「いま・ここ」に対して、誰もいかなる責任もありません。
だから、自分の人生に対して責任を取る必要もないのです。
すごく金持ちの家に生まれれば、「ラッキーだったね」となりますが、貧乏な家に生まれる人生もあるでしょう。
でもそれは生まれる子どもの責任ではありません。
それに、金持ちだからといって、幸せかどうかもわからない。
また、江戸時代に生まれたか、現代に生まれたかも自分の責任ではありません。
日本に生まれたか、アフリカやパレスチナに生まれたかも、本人の責任ではありません。
まず、思考の出発点として、人生は無目的であり、無責任であるということなのです。
無目的であり、無責任でもあるということは、意味もないということです。
人生は無・意味なんですね。
誰もが「自分の人生」と言いますが、人生は自分のものですらないかもしれないということが話の出発点です。
人は誰でも、偶然に生を享け、自分ならざるものの力で、この世の中に存在している。
自分の力など、どこにも働いてはいませんし、そこにはいかなる必然もない。
自分が自分でない誰かであっても一向にかまわない。
そういう自分の生存に対して、義務や責任や、目的や目標、悩みや喜びを感じるのは、どうしてなのか。
それを感じているのは誰なのか。
一言でいえば、自分を生かしているのは、自分が知らない自分であって、自分が知っている自分と、自分が知らない自分は、いつも矛盾した状態にあるということだろうと思います。
誰でも、自分の知っている自分と、自分が知らない自分の間で引き裂かれてこの世に存在しているのです。
その根源的な矛盾が「悩み」の本質なのです。
「悩み」とは、だから自分が生きているということの矛盾の表れです。
自分が知っている自分(自分が作り出した目標を持ち、自分が名乗りを上げた責任を負っている自分)と、自分が知らない自分(無目的でありかつ無責任である自分)との間にある矛盾の別名が「悩み」なのではないでしょうか。
だとするならば、何か悩みがあるとして、その悩みを解決するいい方法が簡単に見つかるなどということは、まずあり得ません。
唯一の絶対的な解決は、自分が消失すること、いなくなるということです。
そうすれば、自分の知らない自分もいなくなり、矛盾そのものが無くなります。
つまり、「悩んでいる」とは「生きている」ということとほとんど同じ意味なのです。
生きていることと悩んでいることは、ほとんど同義です。
悩みがあることは、自分で思うほど異常な状態ではないし、悪いことではない。
ここから、出発すべきなんですね。
(中略)
偶然この世に生を受けて、今の境遇にいる。
その境遇に流されていると、どんどん気力がなくなる。
生かされているという感覚しかなくなります。
もちろん、そういう人もいますが、生かされているだけでは、食べる気も、何かをする気力もなくなります。
だから、どうしても生きる目的「のようなもの」が必要になるんですね。
生きていることの責任を負いたいと思うのです。
そうしないと、生きている意味が見いだせないからです。
私たちは、偶然、生を受けて、この世にいる。
そのことには、本来的にいかなる責任もない。
だからこそ、「私には責任のない自分の人生に対して責任がある」と、名乗りをあげる。
何故、そんなことをするのか。
それは、このときだけ、偶然が必然に変わるからなのです。
偶然が必然に変わるとはどういう意味なのか。
それは、自分の人生には意味があるということを自覚できるということなのです。
偶然を必然に変えるには、あるいは無意味を意味に変えるには、私たちは、責任のないことに対して、それは自分の責任だと名乗りを上げる必要があるのです。
言い換えるなら、問題を作る必要がある。
悩みを作り出す必要があるということです。
悩みがあるから、人はそこに生きている意味を見出すことができるともいえるでしょう。
こういう風に、もともと、人生とはまったく偶然で、人は誰もが自分の人生に対して責任はないのだけど、たとえば「子どもができました。それは私の責任です」と名乗りをあげると、そこに人生の意味が浮かび上がってきます。
意味は最初からあったわけではなく、責任を名乗ったときにはじめて立ち上がってくる。
これはとても大事なことなのですが、意味はいつも後からやってくる。
誰にとっても。




さぁ、明日はインくんを育てるぞ。

コメント

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ふんふん
お誕生日おめでとうございます。
私も後2ヶ月で兄が亡くなった月齢になりります。
兄の葬列のあと、近所のおばさまから【お兄さんの年になったら、新たな悲しみがある】みたいなことを言われ、どういうことかなと最近考えます。
社会的責任かな、とか。
親より長生きしようとは思わない、今死んでもいいと思う私は親不孝ですね。
投稿日:2017年2月13日 22:31

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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