仕事納めでした。

2016年12月30日 21時41分25秒 (Fri)

今年最後のジャッジ…を撮ってたら、また、故障したンゴ。
コンセントに挿しても、電源がつかんのよ。
以前もあったんだけど、多分ケーブルの接触不全ンゴねぇ。
しかしゲイトジャッジって、よう故障するなぁ。
まぁもう慣れっこだけどね。

これを読んでる川村義肢もしくはパシフィックサプライの関係者の方…至急代替機を用意して、年明け可及的早期に持ってきてくださいね。
お願いします。





…で、ボキの1日はゲイトジャッジとともにあるわけだから、ジャッジが故障すると、ボキの仕事がたちゆかなくなるわけだ。
というわけで、空いた時間で1月7日の講演の準備をしてたのだ。
今日は改めて、京大の大畑先生の文献を読みなおしていた。
やっぱり大畑先生とボキの考えていることは相当かぶっている。

img_20161230-174720.png
たとえばこれ。
科研の研究助成を受けたやつの報告書。
端的に言うと、片麻痺患者のガストロは、筋トレするより歩行トレーニングのほうが効率よく鍛えられる、ってお話。

img_20161230-174757.png
これ、第45回(ということは今から6年前か…)の全国学会で大畑先生がランチョンしたときの抄録。
GSは便利だけど、立脚後期に下腿三頭筋がしっかり働いてないと、背屈フリーの機能を活かしきれんよね、ってお話。




…いやぁさすが大畑光司やわ。




で、じゃぁ、どうやって片麻痺患者のガストロを鍛えるか、ってところで、ボキと大畑先生は少しだけ方向性が違ってくるんだけどね。
現在進行形で大畑先生が力を入れてるいろんなデバイスは…ボキは…うーん、ちょっと違うんじゃないか、と思う部分もあったりするわけ。
いや、ああいうのもあってもいい。
かもしれないけど、PTがちゃんと介助したら、ガストロは打ち出の小槌なんだから。

img_20161230-215049.jpg
(↑ワカルヒトダケワカレバヨイ)




まぁでも、大畑先生だって、いろんな臨床を見てるわけだから。
その結果として、PTの介助技術の上達よりも、新しいデバイスの可能性にかけたくなるのかもしれない。
だってPTって、いつまでたっても細かい細かい神経学とか関節運動学とかファシリテーションテクニックにこだわってるもんねぇ。
あのあたりを駆逐せなあかんな…打ち出の小槌で。







さて、そんなこんなでトモッキーの2016年のお仕事がすべて終了したわけだ。
4月から働き方がガラリと変わって、思い悩むことの多い日々だったわぃ。
これまでよりもボキと距離ができて、学ぶことや悩むことが増えたヒトもいれば、これまでよりもボキと距離が縮まって、学ぶことや悩むことが増えたヒトもいるでしょう。
来年も多方面で悪ふざけをするのでよしなに。

ボキはこの1年、4階を離れて、尚和会全体を見るようになって、やっぱり『教育とは何か』ってことをこれまで以上に考えたことでしたよ。


…じゃぁ今日のタッツー。
2016年7月のブログから一部抜粋。


教育への資源投入を惜しむ国が科学的なイノベーションを先導したり、未来社会のあるべきヴィジョンを提示したり、世界標準になるような社会制度を創り出すということはありえない。

なぜ学校教育に優先的に国民資源を分配しなければならないのか。
理由は言うまでもない。
集団が生き延びるためである。
生き延びるためには「使えるものはすべて使う」のは当然である。
学校教育を受けられなかったために開花する機会を逸した才能は「社会的損失」としてカウントされるべきである。
私はそう考えているし、18世紀の啓蒙思想家たちもそう考えている。
けれども、そういう考えをする人は今の日本ではもう少数派である。
人々は学校教育は「商品」であり、それを獲得するためにはしかるべき「代価」を支払わなければならないと信じている。
その「代価」を今ここで準備できない者は、その潜在的な才能や未開発の資源の有無にかかわらず、学校教育機会から排除されて当然だという意見が大声で語られている。
子どもたちが教育機会を逸することを「社会的損失」だとはもう人々は思っていない。
ものが商品であれば、その通りだ。
金のない人間が車を買えなくても、家を買えなくても、服を買えなくても、私たちは別にそのことを「社会的損失」だとは思わない。
「車や家や服が手に入った場合になら開花したかもしれない美質、集団を救ったかもしれない才能」というようなものを私たちは思いつかないからである。
そして、質の良い車や家や服が手に入った場合に、自分の身に「何が起きるか」は、どういう快楽がもたらされるかはほとんど確実に予測できる。
だが、そこには何の意外性もない。
学校教育は違う。
教育とは「そのようなものが人間のうちに潜在しているとは予測もできなかったもの」が見出され、爆発的に開花し、多様な展開を遂げるプロセスである。
学校教育がもたらすアウトカムは原理的に予測不能である。
だから、未来に希望を持っている社会では教育への資源分配は高い優先順位が与えられる。
その反対に、人々が未来に希望を持つことのできない社会では教育への資源分配は最低の査定を受ける。
勝っている人間が勝ち続け、負けている人間が負け続ける惰性的な社会、一部の特権集団に権力や財貨や情報や文化資本が排他的に蓄積される社会では、人々は教育への資源分配に敵対的になる。
それは他に優先的に金の使い道があるからではなく(それもあるが)、何よりもアウトカムが予測不能なプロセスをそのような社会では人々が嫌悪するからである。
「制御できないもの」「既存の物差しで衡量できない価値」の出現を恐れるからである。

OECD調査によれば、GDPに占める教育機関への公的支出の割合で日本は比較可能な32カ国中最下位である。
最下位はすでに5年連続である。
この不名誉な記録はこれからも更新され続けるだろう。
だが、それを危機的な事態だと思っている人はきわめて少ない。
学校教育の現場でさえ、毎年のように公的支援が削られてゆくことを「しかたがない」と思っている人が過半である。
政府が教育への資源分配を惜しむのは、一にも二にも「費用対効果が悪い」からである。
平たく言えば、「金にならない」からである。
19世紀に公教育への税金の投入を惜しんだアメリカの富裕な「リバタリアン」たちと同じことを政府も財界もメディアも主張している。
事実、私が大学在職していた最後の時期、文科省が最もうるさく要求していたことは何よりも「すぐに実用に役立つ研究教育をしろ」ということと「どういう努力を入力すると、どういう結果が出力されるか一覧的に示せるかたちで研究教育を行え」ということだった。
もう一度同じことを繰り返すが、教育のアウトカムがどういうかたちで開花するかは予測不能である。
何がトリガーになって、どのような才能が、どのタイミングで、どんな形態で開花するかは、本人にも教師にも親にも友人にも、誰にもわからない。
人間知性はわずかな入力差が巨大な出力差をもたらす複雑系だからである。




今年ボキといっしょにお仕事して、成長を見せてくれたヒトがたくさんいました。
そう、そこのあなたとあなたとあなたとあなたですよ。
ありがとう。
来年もよろしく。

まだボキとそこまで深く絡んでないヒト…来年は是非、一緒にお仕事しましょう。
あなたボキ技術を望んで、面白がってくれるなら、いつでも手伝います。


…ちょっと説教くさくなったな。
飲んでるからね。
じゃあの。
 


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プロフィール

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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