十三経由でも、西北経由でも、畦野発の時間は同じなんだよね。

2016年7月2日 21時14分37秒 (Sat)

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私たちは未来について考えるときにどうしても「現在」という固定的な視座に腰を据えて、そこから「未だ来たらざるもの」を推量しようとする。
「未来」というのは定義上、「何が起こるかわからない」ものである。
そのことは理屈ではわかっている。
けれども、「現在」に腰を据えていると、「できることなら、我が身には可能な限り『わけのわかったこと』だけが選択的に起こってほしいものだ」という無意識の欲望の浸潤を防ぐことができない。
この無意識の欲望はかならずや「まさか、『こんなこと』が起こるとは思わなかった」ことの到来の予兆を過小評価するように私を導く。
現在の視座に腰を据えている限り、私たちはすでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか「未来」を考想することができない。
だが、未来は決して「現在の延長」ではない。
そのことは骨身にしみてわかっているはずなのに、私たちはそのつど未来を「現在を量的に延長したもの」として把持しようと空しく努力する。
レヴィナス老師は『時間と他者』にこう書いている。
すでに何度も引用した箇所であるが、「哲学的お年玉」と思って拳拳服膺して頂きたい。
「未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(…)未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。」(原田佳彦訳、法政大学出版局、1986年、67頁)
美しいことばである。

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「オレって、いったい誰なんだ・・・」
という深甚なるアイデンティティ・クライシスに襲われる、(中略)そのときに、さらに内省的な精神は「『オレって、いったい誰なんだ・・・』という問いを発しているこの『オレ』って、いったい誰なんだ・・・」という問いに取り憑かれる(以下同文)。
『ちびくろサンボ』の虎たちのように、自分のしっぽを追いかけ始めた虎たちは、やがて「バター」になってしまう。
「虎がバターになる」というのが、この「『オレ』って誰?」という終わりなき問いの手柄である。
この種の内省は、ある閾値を超えると、「虎」が「バター」になるように、質的転換を果たす。
「ま、そんなこと考えても埒があかないから、もういいや、ラーメンでも食おう」
という日常的なリアリティへの帰還の必然的であることを導出するために、ここまで手間ひまをかけて哲学的内省はなされてきたのである。
古来この「日常への帰還」の肝要であることを多くの哲学者が力説してきたが、残念ながら、これをまじめに受け取る読者の数は決して多くない。
私が先賢に代わってきっぱり申し上げるが、終わりなき哲学的考究に哲学者たちが勤しんできたのは、「もういいや、ラーメンでも食おう」というひとことに千鈞の重みを与えるためなのである。

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『方法序説』にデカルトはこう書いている。
「自分の住む家の建て直しをはじめるに先だっては、それをこわしたり、建築材料や建築家の手配をしたり自分で建築術を学んだり、そのうえもう注意深く設計図が引いてあったりする、というだけでは十分でなく、建築にかかっている間も不自由なく住めるほかの家を用意しなければならないのと同様に、理性が私に対して判断において非決定であれと命ずる間も、私の行動においては非決定の状態にとどまるようなことをなくすため、そしてすでにそのときからやはりできるかぎり幸福に生きうるために、私は暫定的にある道徳の規則を自分のために定めた。」(野田又夫訳、中公世界の名著22,1967年、180頁)
さすがデカルト、言うことに間然するところがない。
哲学的考究とは、いわば「自分の住む家の建て直し」をすることである。
「自分の家」とは階級意識でも、形而上学的臆断でも、民族誌的偏見でも、父権制的イデオロギーでも、なんでもよろしい。とにかく、「自分がそこに棲みついている」ところの「ドクサ」のことである。
それをいったん解体して、土台やら構造やら材質やらを点検しないことには哲学は始まらない。
だが、そうやって「自分の家」を壊してしまうと住むところがなくなる。
どうしたって、「建築にかかっている間も不自由なく住めるほかの家」がなくてはすまされない。
それが私のいうところの「とりあえずラーメンでも食うか」である。
デカルトの「ラーメン」はつぎのようなものである。
「第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教え込まれた宗教をしっかりともちつづけ、ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別のある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった。」(同書、180-181頁)
これがデカルトの「バター=ラーメン=仮住まい」である。
レヴィナスの「未来は他者である」とデカルトの「最も穏健な意見に従って自分を導く」は、人間について語られた最も深遠な省察のことばのひとつであると私は思っている。
(タッツーの2006年のブログより)




…さて、まだ通しで読んでみて5分で収まらないわけだが。
てかそもそも歩行アシストのことがよくわかっていないのに発表するのが無茶なんだよね。
とりあえずラーメンでも食うか。

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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