いろいろあったけど、嬉しかったことだけ記録しておく。

2016年6月15日 23時59分59秒 (Wed)

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2階でナカさんの患者さんを一緒に。
いろいろあって、長下肢装具を作成してから3か月くらいで、まだカットダウンできてない。
まぁいろいろあったみたい。
試しに膝のロックを解除してみたら、ターミナルスタンスでこうなる。

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T-Support使ってみると…うーん、まだちょっと固定しすぎやな、ナカさん。

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T-Supportはこうやって使うんやで。
って、何度かお手本みせたら、すっと上手に介助できるようになったよ。
『こうすればよかったんですね!』
って言ってもらえると、今の仕事も少しはやりがいがあるってもんさ。




タッツー2007年6月6日のブログより、一部抜粋。

「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。
先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。
とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。
私が何かを書くとき(例えばいましているように)、書き始められたセンテンスは前後の文脈や統辞上の制約や私の「書き癖」のせいで自動的に一文をなす。
そうやって自分が書いた文を私は読者になって読み返す。
読んで「なるほど」と納得することもあるし、「何か違う」と思うときもある。
たいていは「何かが違う」と思う。あるいは「何かが足りない」とか「何かが過剰である」と思う。
私はその印象にしたがって文を補綴し、あるいは削除し、あるいは加筆する。
そうやってあれこれいじりまわしているうちに「読んでそれほど違和感のない」文章が出来上がる。
この文章を「それほど違和感がない」と感じているもの、それが発話主体である。
文章を書き終えたあとにはじめてその文章を書いた人間の言語運用の「好み」がすこしだけわかる。
エクリチュールというのはそのように構造化されている。
モーリス・ブランショはこう書いている。
「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」(Maurice Blanchot, ‘La littérature et le droit à la mort’ in La Part du Feu, Gallimard,1949, p.296)
「いいたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める。
極端なことをいえば、「私」は「私が発した言葉」の事後的効果として存在し始めるのである。




…まぁ、なんだ、明日も一日がんばろう。

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プロフィール

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ニックネーム
中谷知生

Tomoki Nakatani
所在地
兵庫県宝塚市にある、宝塚リハビリテーション病院に勤めています。
職業
理学療法士です。

Certificated physical therapist in Neurology

自己紹介
I am interested in physiotherapy for improvement of gait ability of a patient with stroke hemiplegia.
And I'm a member of Japan Physical Therapy Association stroke guideline crew.

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